スラッターとかスラットとかバックドアとかフロントドアとか

高校時代、ある後輩投手は大きく緩いカーブと小さく速いカーブを使い分けていた。
大学時代、同級生投手のボールを初めて受けたとき「次、スライダー」と言われて「りょーかーい」とのんきに構えていたら鋭く速く縦に落ちるボールが来て「は?」となった。
大学時代、後輩投手がケガをした後、ストレートの威力が戻らないということで、スライダーとカーブのサインを高低内外もっと細かくして意識的に使い分けよう、という話になった。
名前がなかっただけで昔からいろんな変化球とその使い方はあったんだろうな。
ただ、中学時代、エースだった後輩投手に「サインは球種+ストライクゾーンを9分割して内外&高低それぞれを組み合わせたものにしよう(そう攻めよう)」と提案したのはやりすぎだったと反省している(1ヶ月後、「無理っす」と言われて元に戻った)

f:id:bb-fujishima:20201029151646j:plain

プロ野球ドラフト会議における山形県関係者 〜おめでとう中野拓夢、阿部翔太、赤上優人!〜

昨日のドラフト会議では我が故郷・山形県関係者の3選手が指名された。

おめでとう!

これで山形県関係者の指名は10年連続。僕の子ども時代は「山形県出身のプロ野球選手は本当に少ない……」と寂しい思いをしていたものだが(それが「なぜなんだ?」と野球への興味を深掘りさせる理由にもなったといえばなったのだが)、まさに隔世の感である。

で、あらためて表にしてみると、この10年連続の前も2年空けて8年連続で指名されていた。だが、その前となると10年に1〜3人のペース。

2010年〜2019年 16人

2000年〜2009年 10人

1990年〜1999 年 2人

1980年〜1989年 1人

1970年〜1979年 3人

1965年〜1969年 2人

僕の少年時代は1985年〜1993年くらいと考えると、前述の僕の疑問もご理解いただけるのではないだろうか。下記の表を見ていただければわかるように、誰かが引退しても翌年くらいにしぶとく誰かが指名されて「出身プロ野球選手ゼロ」という空白期間は1年以上にはならなかったのだけど。

ともあれ今の山形の野球少年たちの、プロ野球選手、あるいは「上で野球を続ける」ということに対する意識は全く違うものなのだろうなあ。

 この理由、背景は何だろうか? 1回きちんと検証してみたいところだけど。

ちなみに東海大山形PL学園に敗戦して県議会でも県勢の弱さが議題に挙がったのが1985年。日本生命監督などを勤めた佐竹政和さんが県のスポーツアドバイザーに招かれて巡回指導を行っていたのが1990年代後半。これらの芽が出てきた時期とは一致するがどうなのだろう?

後者については、当時の自分は「どれくらい効果があるのかな?」と半信半疑でニュースを聞いていたのだけど、良きことも多かったのかしら? 個人的には、それも含めて多面的な理由があるように感じているけど。たとえば酒田南の台頭、大学・社会人で野球を続けた人(当時の山形にとっては稀少人材)の指導者としての帰還および年齢的熟成(それなりに指導のイニシアチブをとれる年代になった、みたいな)、東北勢全体のレベルアップなどなど。

ま、あくまで想像ですけどね。

ともあれ、中野、阿部、赤上の3選手にエールを送りたいです。がんばれ!

*ドラフト制度導入以降の山形県関係ドラフト指名&プロ野球選手リスト

(1990年代までは指名選手引退年付き)

(他にドラフト外入団選手が2名いる)

(渋谷通<平安>を加えれば1969年1名)

2020
中野拓夢(日大山形東北福祉大三菱自動車岡崎)
阿部翔太(酒田南ー成美大日本生命
赤上優人(角館ー東北公益文科大)*育成

2019
宮川哲(東海大山形ー上武大ー東芝
伊藤海斗(酒田南
村上瞬(山形中央)*育成

2018
佐藤智輝(山形中央
齋藤友貴哉(山形中央桐蔭横浜大ーHonda)
粟津凱士(山本学園ー東日本国際大)

2017
吉住晴斗(鶴岡東)
田中優大(羽黒)*育成

2016
石垣雅海(酒田南

2015
赤間謙(東海大山形東海大鷺宮製作所
青木陸(山形中央

2014
横山雄哉(山形中央新日鐵住金鹿島)
石川直也(山形中央

2013
奥村展征日大山形

2012
下妻貴寛(酒田南

2011
渡辺貴洋(鶴岡東ー新潟アルビレックスBC)*育成

2010
なし

2009
なし

2008
鈴木駿也(山形中央

2007
山本斉酒田南
小林賢司(酒田南青山学院大

2006
長谷川勇也酒田南専修大

2005
金本明博酒田南

2004
梅津智弘(上山明新館ー国学院大)

2003
佐藤賢(羽黒ー明治大)

2002
高橋敏郎(新庄東ー石巻専修大
加藤武治(山形南ー東京学芸大ー三菱ふそう川崎)

2001
小田嶋正邦東海大山形東海大

2000
なし

1999
栗原健太日大山形

1998 *鈴木引退
なし

1997
なし

1996
なし

1995
なし

1994
なし

1993
なし

1992
鈴木健(羽黒ー日本石油

1991 *広野引退
なし

1990
なし

1989 *滝口引退
なし

1988
なし

1987
なし

1986
広野准一(日大山形

1985年
なし

1984
なし

1983年
なし

1982年
なし

1981年 *青木引退 *江本引退 *黒沢引退
なし

1980年 *渋谷引退
なし

1979年 *佐藤引退
滝口光則(山形南)

(黒沢修/山形商ー山形県信用経済連*ドラフト外

1978年 *小山田引退
青木重市(鶴岡商ー山形相互銀行

(江本裕人/米沢商*ドラフト外

1977年
なし

1976年
なし

1975年
なし

1974年
なし

1973年
佐藤博(酒田商ー日立製作所

1972年
なし

1971年 *皆川睦雄引退
なし

1970年
なし

1969年
なし(渋谷通/平安*酒田市出身)

1968年
山田健一日大山形
柳橋明(日大山形)入団拒否

1767年 *高橋栄一郎引退

なし

1966年
なし

1965年 
なし

プロ野球の引退シーズンと習志野時代の福浦和也と

今年のプロ野球も引退や戦力外という言葉が目立つ季節になってきた。

ちなみに昨年は、同い年である福浦和也千葉ロッテ)の引退が印象深かった。

というのも、大学時代に所属していた軟式野球同好会に、習志野の野球部出身のS先輩がという人がいたんですよ。
S先輩は僕同様、高校時代は補欠の補欠の補欠の補欠クラスで裏方担当。境遇が似ていたこともあってか、かわいがってもらったんですね。話してみると高校時代の仕事や心境に共感の嵐。

たとえば仕事なら、対戦相手の偵察・データ収集にチーム道具チェック、練習試合の相手チーム対応、遠征時の雑務全般などなど。お互い学年が上がることにボールを触らなくなっていったところまでいっしょでした。

で、仕事の中に「1年生係」というのがあるんですよ。まあ、入学したての1年生の練習サポートや部に慣れるための指導とか、いろいろ面倒見る係。僕はサードコーチャー兼ノッカーでもあったので、試合形式のノックにおけるランナーの役割や動き方を教えたりしたもんです。

ちなみに往々にして僕とかS先輩のような立場の人間は、下級生にとって比較的、気軽に接することができる上級生になりやすい。それが慕ってくれているのならいいけれど、中には完全にこっちをナメていることが丸わかりな下級生もいたりして(笑)。でも、それはお互いキャラならいいんです。そういう選手って、試合では度胸よく活躍したりもするし。

そんな話をS先輩としていたら、「そういえばこの前……」とS先輩が、当時プロ入りして間もない千葉ロッテ福浦和也の話を始めたんですよ。S先輩は入部して即レギュラー組に入った1年生・福浦の指導係を務めていたそうなんです。

「福浦と幕張本郷の駅でバッタリ会ってさぁー。〝福浦も早く顔を覚えてもらって、駅とか気軽に歩けなくなるようにならなきゃね〟って励ましたら、あいつ〝はい、がんばります!ありがとうございます!〟だって。プロになっても変わんないなー、高校のときといっしょだ。活躍してほしいよホント」

S先輩によると、福浦は指導係とはいえ補欠の補欠の補欠の補欠クラスで裏方担当だったS先輩を軽んじたりせず、実に実に誠実な1年生だったそうで、野球の腕はヤバいが態度やグラウンド外でもヤバいタイプとは一線を画していたそう。

年中補欠の身からすると、レギュラーが裏方にも1人の選手というか人間として接してくれるのって、やっぱりうれしいし、心の底から応援したくなるんですよね。
でもって当然ながら野球の腕もとんでもなかったそうですやっぱり(入部直後のフリー打撃で先輩を差し置いて一番飛ばしていたそう)。

1975年度の野球選手にとって、福浦は最後のプロ野球選手。引退には寂しさを感じたけど、最後まで残ったのが、こんな選手でよかったな、と引退試合を見ながらS先輩の話を思い出していました。

今年も誰かの引退には、いろいろと思い出が脳裏によみがえるのだろう。

1人ドラフト会議と江坂政明と村井勝美と

野球界は来週に迫ったドラフト会議の話題が盛り上がっている。
毎年思い出すのは、僕が中学1年くらいから毎年やっていた「1人ドラフト」である。
 
1人で12球団の指名選手を6位×12球団=72人決める。
重複があれば手製のクジを1人で引いて抽選する。
1人で全球団のクジを引き、1人で「〇〇に決定!」と驚く。
外れた球団の指名選手を新たに考えるのも1人だ。
忙しい。
けど、楽しかったなぁ。
たぶん同じ時間、同い年のうまい選手は素振りや走り込みをしていたのだろう。
自分が選手としてダメだった原因はこのあたりである。
ネットもドラフト(的視点の)専門誌もない時代。最大の情報源は夏の甲子園展望号とドラフト前の週べ、そしてスポーツ新聞の候補選手リスト。よって、今よりもずっとドラフト直前で慌ただしく選手を評価しなければならなかった(誰にも頼まれてないけど)。
さらにYouTubeどころか、ウチにはビデオデッキもなかったので(クラスメイトの中で導入が一番最後だった……)、選手のプレーは記事からイメージすることがほとんど。その他、選手評の書き口や戦績の相対評価なども加味して判断、指名順位を決める。
この「俺の1人ドラフト」で、何年か上位で指名しながら、現実のドラフト会議で指名漏れが続いたのが、村井勝美(NTT信越)と江坂政明(神戸製鋼)という2人のサウスポー。
2人とも「ややスピード不足」とはあったものの、各誌の評価は低くなかった。そのため、宮本和知のブレイク前後で「左腕日照り」といわれた巨人のために2人を指名したこともあった。
「なぜ2人は指名されないのか?」
それは、当時の自分にとって大きな謎であった。
後年、江坂は近鉄に指名されてホッとしたが、村井は結局、プロに指名されることはなかった。
情報豊富な今だったら(あるいは自分でいろいろな試合を観戦できる今なら)、もう少し指名漏れの理由や背景がわかったのかなぁ……。
いつか誰かから聞けたらうれしいのだけど。

秋季東北大会と1年生大会と山形県野球場と

秋季東北大会は仙台育英が優勝。
これで東北の今季メイン公式戦は基本的に終了になるが、僕の故郷、山形県はこの後、1年生大会がある。
これは僕らの時代からある大会で、名前通り1年生だけでチームを組み、県チャンピオンを決めるのだ。
1年生大会は地区予選では会場が各校のグラウンドだったり、引退した3年生が塁審を務めたりと手弁当感たっぷりなのだが、勝ち抜いて県大会進出となると会場は山形の聖地・山形県野球場(現在の荘銀・日新スタジアムやまがた)になる。
高校球児の夢といえば甲子園だが、万年補欠だった僕からすると、この球場でプレーするのも小さな夢であった。
無論、ヘタクソな僕は1年生チームでも控え。自分の実力のなさがイヤというほどわかり、叩きのめされた頃だったので、まあそんな小さな夢も叶わず高校野球を終えるのだろうなあ、と高1秋の段階で既にボンヤリ諦めかけていた。
で、その山形県野球場で行われた1年生大会の県大会初戦。相手は米沢商で、我がチームは相手にリードを許したまま既に最終回2死走者無し。
すると監督が僕を呼び「打ってこい」と代打を命じた。
正直なところ、試合に出られるなんて全く想像していなかったので「えっ、出るの?」と心の準備も全く無し。
というのも、当時の我が母校は公式戦での思い出起用はナシが基本。最後の最後まで勝負を諦めてはならないのだ。ならば、僕の起用はない(悲しいけれど)。試合に出ている選手にそのまま打たせるべきである。
まあ、そこは1年生大会ということで、監督も温情をかけてくれたのだろう。
「えっ」とは思いつつ命じられたら行くしかない。「とにかく塁に出る」と急いで準備をして打席に向かった。
そして、バッターボックスに近づいたくらいで、やっと自分が県野球場で試合をできることのうれしさがちょっと沸いてきた。
その風景は今も鮮明に覚えている。
曇り空の肌寒い日。
観客がほぼいない静かなスタンド。
米商のピッチャーの一瞬ニヤけた表情。
想像よりも遠くに見えた外野フェンス。
結局、それは最初で最後の県野球場での打席となった。
だから、僕にとって「山形の聖地」でのプレーは、高校野球っぽい暑い夏ではなく、晩秋のグレーのイメージ。
それでも、この時期になるとたまに脳裏に浮かぶ、大切な思い出である。
結果? もちろん平凡なピッチャーゴロでゲームセット、ですよ!
 

f:id:bb-fujishima:20201021140438j:plain

プロ野球のドラフト会議と新潟商と星野順治と

プロ野球のドラフト会議が近づいてきた。

だからだろうか、今朝、ふと新潟商のエースだった星野順治(元ソフトバンク)のことを思い出した。僕は一応、元高校球児なのだが、母校と新潟商は、毎年、練習試合をしていた。

自分がプロ野球選手にはなれないと感じたのは高1の秋。それは優れたチームメイトと自分の差を痛感したからなのだけど、外の世界には、その力あるチームメイトをも軽くひねってしまう、さらに上の選手がいることも試合などを通じて追々知り、諦めは心底からのものになった(気づくの遅い)。

たとえば入学直後の1年生のくせにウチをいきなり5回無安打に抑えた嶋重宣(元広島ー西武)、対戦はしなかったが前の試合のブルペンでとんでもないボールを投げていた小野仁(元巨人ー近鉄)、スイングしたと思ったら一瞬で打球がフェンスに「激突」した松井秀喜(元巨人ーヤンキース他)などなど。

そして1学年上だった星野順治も、そんな選手の一人だった。
高2の6月の練習試合。星野が好投手だという評判は聞いていたので、僕は「どんなピッチャーなんだろう」とワクワクしていた。まだネットもなく情報が少ない時代である。

ところが想像に反して星野は嶋や松井のようなフィジカルの持ち主ではなく、小さくはないがやや細身で静かな雰囲気の選手だった。
既に補欠人生まっしぐらだった僕は、アップをしているチームメイトを横目に、新潟商のメンバーを荷物置き場やアップ場所に案内する役目をしていた(雨の影響でグラウンドは試合まで使わないことになっていた)。
ランニングコースを1周だけ先導したとき、後ろにいた大人しそうな星野の顔を見て「本当にプロ注目なの?」と感じたことを憶えている。

が、その疑いは試合になると圧倒的に覆される。
サイド気味のスリークォーターから放たれる真っすぐのキレは抜群で、スピードガンの数字は常時130キロ台半ば。
この「常時」というのがポイントで、数球、速いボールがあるわけではないのだ。
投げている印象から、完投を考えてペース配分していることはうかがえた。商業高校の男子生徒減少がささやかれ始めた頃で、新潟商の部員も少なかった。「夏を勝ち抜くピッチング」を試しているのかな、と感じた。
「全力で投げないでこれかよ……」
先輩や同級生がバタバタ三振する結果をスコアにつけながら、ため息をつかされた。

経験者ならわかってもらえると思うが、当時の高校野球の現実に「プロのようにポンポン、ホームランが出るものではない」「一般的な投手は140キロどころか130キロを出すのも難しい」ということがある。
ちょうどその頃、MAXが130キロ台を記録し始めた同級生ピッチャーがいて「おお、やったな」と思っていただけに、134,5キロを、7、8分くらいの力でずーっと出し続ける星野の凄さが身にしみた。
結局、彼は涼しい顔で完投勝利を挙げた。

星野は社会人を経てダイエー、後のソフトバンクに入団。
騒がれたルーキーではなかったが、高校生にして淡々と自分のペースを守りながら高いレベルで課題に取り組む(ように見えた)星野のピッチングにやられていた僕は、プロでもある程度やるんじゃないかと勝手に感じていた。まあ、多分に身びいきもあったが。
結果は156試合に登板、2ケタ勝利も2度挙げてプロ通算50勝。リーグ優勝や日本一にも貢献した。
大スターではなかったが、成功した部類に入るプロ人生だろう。

特に親しくならず言葉も交わさなくても、対戦経験がある選手というのは、なんとなく肩入れしてしまうもの。
ドラフト会議は、全国のあちらこちらで、そんな思い出が生まれるイベントでもあるんだろうな、といまだ星野のことを鮮明に記憶している自分に苦笑。プロ野球選手は、そんな意味でも「夢を背負った」職業なのだと思う。

緒方耕一さんの清宮幸太郎(早実時代)評

清宮幸太郎が一軍で一進一退の日々を送っている。

その様子をテレビで観ていたら、彼の高校最後の夏を思い出したた。

清宮の最後の夏は甲子園に手が届かない結果に終わった。
ただ、打者としての資質はやはり飛び抜けていた印象だった。パワーもさることながら相手が「ここは大丈夫だろう」と思ったはずの、外角の厳しいコースを単打ではなく長打にしてしまう点は恐ろしかった。投手力の弱いチームが勝つには、ホント、松井秀喜の5敬遠みたいな策を検討しなければいけないレベルだったと思う。

そんなわけで、当時、各メディアにも多くの清宮評が掲載されていたが、印象に残ったのが2017年7月22日の日刊スポーツで緒方耕一さんが語っていた清宮の「空振りする技術」について。


緒方さんによると、清宮は追い込まれていないカウントでは、打ちにいって狙い球ではなかった場合、当てにいかず、わざとそのまま空振りしているように見えるそうである。当てにいって凡打になるより空振りして打ち直した方がいい、としているわけだ。

なんでも松井秀喜高橋由伸も現役時代に駆使していた技術なんだとか。へ〜。

 

f:id:bb-fujishima:20201016235541j:plain

しかし、見方次第では、単にタイミングが全く合っていなかったり、ボールをよく見ていないだけのスイングにも映りそうで、第三者からすると見分けが難しい話だなあ(笑)。

そのへんは「プロ経験者ならではの目」が発揮されているのかもしれないな、と思うと同時に、戦評と取材の関係についても考えさせられた記事でした。

どうでもいい話としては、その後、将来の収入源として庭師の可能性についても考えました。
本当にどうでもいい。