スラッターとかスラットとかバックドアとかフロントドアとか
プロ野球ドラフト会議における山形県関係者 〜おめでとう中野拓夢、阿部翔太、赤上優人!〜
昨日のドラフト会議では我が故郷・山形県関係者の3選手が指名された。
おめでとう!
これで山形県関係者の指名は10年連続。僕の子ども時代は「山形県出身のプロ野球選手は本当に少ない……」と寂しい思いをしていたものだが(それが「なぜなんだ?」と野球への興味を深掘りさせる理由にもなったといえばなったのだが)、まさに隔世の感である。
で、あらためて表にしてみると、この10年連続の前も2年空けて8年連続で指名されていた。だが、その前となると10年に1〜3人のペース。
2010年〜2019年 16人
2000年〜2009年 10人
1990年〜1999 年 2人
1980年〜1989年 1人
1970年〜1979年 3人
1965年〜1969年 2人
僕の少年時代は1985年〜1993年くらいと考えると、前述の僕の疑問もご理解いただけるのではないだろうか。下記の表を見ていただければわかるように、誰かが引退しても翌年くらいにしぶとく誰かが指名されて「出身プロ野球選手ゼロ」という空白期間は1年以上にはならなかったのだけど。
ともあれ今の山形の野球少年たちの、プロ野球選手、あるいは「上で野球を続ける」ということに対する意識は全く違うものなのだろうなあ。
この理由、背景は何だろうか? 1回きちんと検証してみたいところだけど。
ちなみに東海大山形がPL学園に敗戦して県議会でも県勢の弱さが議題に挙がったのが1985年。日本生命監督などを勤めた佐竹政和さんが県のスポーツアドバイザーに招かれて巡回指導を行っていたのが1990年代後半。これらの芽が出てきた時期とは一致するがどうなのだろう?
後者については、当時の自分は「どれくらい効果があるのかな?」と半信半疑でニュースを聞いていたのだけど、良きことも多かったのかしら? 個人的には、それも含めて多面的な理由があるように感じているけど。たとえば酒田南の台頭、大学・社会人で野球を続けた人(当時の山形にとっては稀少人材)の指導者としての帰還および年齢的熟成(それなりに指導のイニシアチブをとれる年代になった、みたいな)、東北勢全体のレベルアップなどなど。
ま、あくまで想像ですけどね。
ともあれ、中野、阿部、赤上の3選手にエールを送りたいです。がんばれ!
*ドラフト制度導入以降の山形県関係ドラフト指名&プロ野球選手リスト
(1990年代までは指名選手引退年付き)
(他にドラフト外入団選手が2名いる)
(渋谷通<平安>を加えれば1969年1名)
2020
中野拓夢(日大山形ー東北福祉大ー三菱自動車岡崎)
阿部翔太(酒田南ー成美大ー日本生命)
赤上優人(角館ー東北公益文科大)*育成
2019
宮川哲(東海大山形ー上武大ー東芝)
伊藤海斗(酒田南)
村上瞬(山形中央)*育成
2018
佐藤智輝(山形中央)
齋藤友貴哉(山形中央ー桐蔭横浜大ーHonda)
粟津凱士(山本学園ー東日本国際大)
2017
吉住晴斗(鶴岡東)
田中優大(羽黒)*育成
2016
石垣雅海(酒田南)
2015
赤間謙(東海大山形ー東海大ー鷺宮製作所)
青木陸(山形中央)
2014
横山雄哉(山形中央ー新日鐵住金鹿島)
石川直也(山形中央)
2012
下妻貴寛(酒田南)
2011
渡辺貴洋(鶴岡東ー新潟アルビレックスBC)*育成
2010
なし
2009
なし
2008
鈴木駿也(山形中央)
2003
佐藤賢(羽黒ー明治大)
2002
高橋敏郎(新庄東ー石巻専修大)
加藤武治(山形南ー東京学芸大ー三菱ふそう川崎)
2000
なし
1998 *鈴木引退
なし
1997
なし
1996
なし
1995
なし
1994
なし
1993
なし
1991 *広野引退
なし
1990
なし
1989 *滝口引退
なし
1988
なし
1987
なし
1986
広野准一(日大山形)
1985年
なし
1984年
なし
1983年
なし
1982年
なし
1981年 *青木引退 *江本引退 *黒沢引退
なし
1980年 *渋谷引退
なし
1979年 *佐藤引退
滝口光則(山形南)
1978年 *小山田引退
青木重市(鶴岡商ー山形相互銀行)
(江本裕人/米沢商*ドラフト外)
1977年
なし
1976年
なし
1975年
なし
1974年
なし
1972年
なし
1971年 *皆川睦雄引退
なし
1970年
なし
1969年
なし(渋谷通/平安*酒田市出身)
1767年 *高橋栄一郎引退
なし
1966年
なし
1965年
なし
プロ野球の引退シーズンと習志野時代の福浦和也と
今年のプロ野球も引退や戦力外という言葉が目立つ季節になってきた。
ちなみに昨年は、同い年である福浦和也(千葉ロッテ)の引退が印象深かった。
というのも、大学時代に所属していた軟式野球同好会に、習志野の野球部出身のS先輩がという人がいたんですよ。
S先輩は僕同様、高校時代は補欠の補欠の補欠の補欠クラスで裏方担当。境遇が似ていたこともあってか、かわいがってもらったんですね。話してみると高校時代の仕事や心境に共感の嵐。
たとえば仕事なら、対戦相手の偵察・データ収集にチーム道具チェック、練習試合の相手チーム対応、遠征時の雑務全般などなど。お互い学年が上がることにボールを触らなくなっていったところまでいっしょでした。
で、仕事の中に「1年生係」というのがあるんですよ。まあ、入学したての1年生の練習サポートや部に慣れるための指導とか、いろいろ面倒見る係。僕はサードコーチャー兼ノッカーでもあったので、試合形式のノックにおけるランナーの役割や動き方を教えたりしたもんです。
ちなみに往々にして僕とかS先輩のような立場の人間は、下級生にとって比較的、気軽に接することができる上級生になりやすい。それが慕ってくれているのならいいけれど、中には完全にこっちをナメていることが丸わかりな下級生もいたりして(笑)。でも、それはお互いキャラならいいんです。そういう選手って、試合では度胸よく活躍したりもするし。
そんな話をS先輩としていたら、「そういえばこの前……」とS先輩が、当時プロ入りして間もない千葉ロッテ・福浦和也の話を始めたんですよ。S先輩は入部して即レギュラー組に入った1年生・福浦の指導係を務めていたそうなんです。
「福浦と幕張本郷の駅でバッタリ会ってさぁー。〝福浦も早く顔を覚えてもらって、駅とか気軽に歩けなくなるようにならなきゃね〟って励ましたら、あいつ〝はい、がんばります!ありがとうございます!〟だって。プロになっても変わんないなー、高校のときといっしょだ。活躍してほしいよホント」
S先輩によると、福浦は指導係とはいえ補欠の補欠の補欠の補欠クラスで裏方担当だったS先輩を軽んじたりせず、実に実に誠実な1年生だったそうで、野球の腕はヤバいが態度やグラウンド外でもヤバいタイプとは一線を画していたそう。
年中補欠の身からすると、レギュラーが裏方にも1人の選手というか人間として接してくれるのって、やっぱりうれしいし、心の底から応援したくなるんですよね。
でもって当然ながら野球の腕もとんでもなかったそうですやっぱり(入部直後のフリー打撃で先輩を差し置いて一番飛ばしていたそう)。
1975年度の野球選手にとって、福浦は最後のプロ野球選手。引退には寂しさを感じたけど、最後まで残ったのが、こんな選手でよかったな、と引退試合を見ながらS先輩の話を思い出していました。
今年も誰かの引退には、いろいろと思い出が脳裏によみがえるのだろう。
1人ドラフト会議と江坂政明と村井勝美と
秋季東北大会と1年生大会と山形県野球場と
プロ野球のドラフト会議と新潟商と星野順治と
プロ野球のドラフト会議が近づいてきた。
だからだろうか、今朝、ふと新潟商のエースだった星野順治(元ソフトバンク)のことを思い出した。僕は一応、元高校球児なのだが、母校と新潟商は、毎年、練習試合をしていた。
自分がプロ野球選手にはなれないと感じたのは高1の秋。それは優れたチームメイトと自分の差を痛感したからなのだけど、外の世界には、その力あるチームメイトをも軽くひねってしまう、さらに上の選手がいることも試合などを通じて追々知り、諦めは心底からのものになった(気づくの遅い)。
たとえば入学直後の1年生のくせにウチをいきなり5回無安打に抑えた嶋重宣(元広島ー西武)、対戦はしなかったが前の試合のブルペンでとんでもないボールを投げていた小野仁(元巨人ー近鉄)、スイングしたと思ったら一瞬で打球がフェンスに「激突」した松井秀喜(元巨人ーヤンキース他)などなど。
そして1学年上だった星野順治も、そんな選手の一人だった。
高2の6月の練習試合。星野が好投手だという評判は聞いていたので、僕は「どんなピッチャーなんだろう」とワクワクしていた。まだネットもなく情報が少ない時代である。
ところが想像に反して星野は嶋や松井のようなフィジカルの持ち主ではなく、小さくはないがやや細身で静かな雰囲気の選手だった。
既に補欠人生まっしぐらだった僕は、アップをしているチームメイトを横目に、新潟商のメンバーを荷物置き場やアップ場所に案内する役目をしていた(雨の影響でグラウンドは試合まで使わないことになっていた)。
ランニングコースを1周だけ先導したとき、後ろにいた大人しそうな星野の顔を見て「本当にプロ注目なの?」と感じたことを憶えている。
が、その疑いは試合になると圧倒的に覆される。
サイド気味のスリークォーターから放たれる真っすぐのキレは抜群で、スピードガンの数字は常時130キロ台半ば。
この「常時」というのがポイントで、数球、速いボールがあるわけではないのだ。
投げている印象から、完投を考えてペース配分していることはうかがえた。商業高校の男子生徒減少がささやかれ始めた頃で、新潟商の部員も少なかった。「夏を勝ち抜くピッチング」を試しているのかな、と感じた。
「全力で投げないでこれかよ……」
先輩や同級生がバタバタ三振する結果をスコアにつけながら、ため息をつかされた。
経験者ならわかってもらえると思うが、当時の高校野球の現実に「プロのようにポンポン、ホームランが出るものではない」「一般的な投手は140キロどころか130キロを出すのも難しい」ということがある。
ちょうどその頃、MAXが130キロ台を記録し始めた同級生ピッチャーがいて「おお、やったな」と思っていただけに、134,5キロを、7、8分くらいの力でずーっと出し続ける星野の凄さが身にしみた。
結局、彼は涼しい顔で完投勝利を挙げた。
星野は社会人を経てダイエー、後のソフトバンクに入団。
騒がれたルーキーではなかったが、高校生にして淡々と自分のペースを守りながら高いレベルで課題に取り組む(ように見えた)星野のピッチングにやられていた僕は、プロでもある程度やるんじゃないかと勝手に感じていた。まあ、多分に身びいきもあったが。
結果は156試合に登板、2ケタ勝利も2度挙げてプロ通算50勝。リーグ優勝や日本一にも貢献した。
大スターではなかったが、成功した部類に入るプロ人生だろう。
特に親しくならず言葉も交わさなくても、対戦経験がある選手というのは、なんとなく肩入れしてしまうもの。
ドラフト会議は、全国のあちらこちらで、そんな思い出が生まれるイベントでもあるんだろうな、といまだ星野のことを鮮明に記憶している自分に苦笑。プロ野球選手は、そんな意味でも「夢を背負った」職業なのだと思う。
緒方耕一さんの清宮幸太郎(早実時代)評
清宮幸太郎が一軍で一進一退の日々を送っている。
その様子をテレビで観ていたら、彼の高校最後の夏を思い出したた。
清宮の最後の夏は甲子園に手が届かない結果に終わった。
ただ、打者としての資質はやはり飛び抜けていた印象だった。パワーもさることながら相手が「ここは大丈夫だろう」と思ったはずの、外角の厳しいコースを単打ではなく長打にしてしまう点は恐ろしかった。投手力の弱いチームが勝つには、ホント、松井秀喜の5敬遠みたいな策を検討しなければいけないレベルだったと思う。
そんなわけで、当時、各メディアにも多くの清宮評が掲載されていたが、印象に残ったのが2017年7月22日の日刊スポーツで緒方耕一さんが語っていた清宮の「空振りする技術」について。
緒方さんによると、清宮は追い込まれていないカウントでは、打ちにいって狙い球ではなかった場合、当てにいかず、わざとそのまま空振りしているように見えるそうである。当てにいって凡打になるより空振りして打ち直した方がいい、としているわけだ。
なんでも松井秀喜や高橋由伸も現役時代に駆使していた技術なんだとか。へ〜。
しかし、見方次第では、単にタイミングが全く合っていなかったり、ボールをよく見ていないだけのスイングにも映りそうで、第三者からすると見分けが難しい話だなあ(笑)。
そのへんは「プロ経験者ならではの目」が発揮されているのかもしれないな、と思うと同時に、戦評と取材の関係についても考えさせられた記事でした。
どうでもいい話としては、その後、将来の収入源として庭師の可能性についても考えました。
本当にどうでもいい。